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海皇の3種類のスープと2種類の細麺と中麺。









1942年、鳥取町と合併前後の釧路市に台頭した北海道内の中太麺。その多くは、札幌創世川沿いのトンコツをふんだんに使ったドラム缶スープではありませんでした。30リッターの寸胴に2〜3本のトンコツと香味野菜。満州鉄道の機関士であった札幌『味の三平』の大宮さんの味噌ラーメンの作り方を、醤油に塩にと基にしたものでした。中華鍋に肉野菜をいれ強火で煽りスープを注ぐことで、強烈な旨味を瞬時に引き出すスープの作り方と合う麺。
それと対峙する 『支那そば』の旧釧路市のラーメンの細麺。

言い替えれば、関東でも当時入手困難であった蕎麦粉に代わる小麦粉麺の『支那そば』と、対峙する北海道のラーメンです。


2005年、音別、阿寒町との合併をとおしてさらに、「釧路ラーメン」は、素材も麺もスープの製法も、十勝に近く、北網に近く、多技に渡っていきます。




現在(2013年)の、釧路のラーメンのシェアの80%を占めると言われる製麺所の主力麺の太さは22#の中麺です。
この製麺所では、24#の細麺も製造していますが、製造する麺の多くは22#麺なのだそうです。

この製麺所の創業者が製麺技術を習得したのが、十勝の幕別町に工場移転した池田町に在った製麺所。かん水の成分も加水率も………ここで学んだものが基礎になっています。

戦後68年、釧路ラーメンが辿り着いた麺です。




旧釧路市で多く用いられていた製麺所の細麺は、一時期北見との境、美幌町まで販路を拡げていたといいます。

かん水は自家製で、甘みのあるシコシコツルツル、少し芯が残るものであったといいます。
芯の残り具合と麺のアシを調整する加水加減………………。

敗戦直後の日本。かん水の材料さえも製麺業者自らが作り出さなければならなかった、苦心と苦労がそこにあります。

炭酸ナトリュームを作るところから、旧釧路市のラーメンは始まりました。
ソバに代わる麺としての『支那そば』の麺がそこにあったと言えます。


この当時の細麺は、単に細いとか太いといった形状の話ではなく、かん水の主成分から実に煮えにくいもであったことが窺えます。ゆえに比較早く茹で上る麺の太さが求められたとも言えるのでしょう?

麺はスープとの相性。敗戦後の時節柄、そのような炭酸ナトリュームかん水と小麦粉で麺を作らなければならなかった時代に、想い馳せるのです。




ラーメンの麺とスープは相性。

海皇のラーメンは、濃淡、素材を異にする3種類のスープと細麺と中麺、2種類の麺の組み合わせで作られています。






町村合併で忘れ去られていった、鳥取士族開拓文化






釧路川北部に拡がる明治の鳥取移住者入植地図 【鳥取神社 鳥取百年館所蔵】
雨の度に河川が氾濫した跡の、三日月湖が多数あるのが窺えます。






「釧路ラーメン」が「十勝の開拓」と、何が関係あるんだ?! と思われるかもしれません。

釧路は北海道東部の最東端の不凍港。水産の街と紹介されることが多いのです。しかしそれは釧路の一側面。「旧釧路市」を言い表しているに過ぎません。

松前藩の魚取場を起源とする「旧釧路市」とは、『幣舞橋』の掛かる釧路川以南の地域でした。北の大地と釧路川で隔てられた漁場の街。太平洋沿いの陸伝いに漁港を繋げば、厚岸、浜中、ぶーらぶらです。


1900年(明治33年)一級町村制が施行され、釧路町となり、1922年(大正11年)市制が施行され、釧路市になり、1942年(昭和24年)鳥取町と合併、2005年(平成17年)釧路市と阿寒町、音別町が合併現在に至っています。



ここで釧路のラーメンと大きく関係するのは、食糧難の闇市が立ち並び、アメリカ軍の放出物資であるメリケン粉で麺を作り飢えを凌いだ時期、1942年(昭和24年)鳥取町と合併の時期です。

釧路市の現在のJR釧路駅から釧路湿原にいたる広大な土地は、鳥取町の農耕開拓の地。開拓当初は河川の氾濫により収穫ができない年が続いたといいます。鳥取をはじめとする士族開拓団やその後の開拓団によって開墾された土地は、困難な治水や土地改良が行われていきます。



ここで思い起こしましょう。「漁師は気が短いので茹で上りを早くするために細麺」などの話は、山の上(昭和24年以前の旧釧路市)から見た後付けのラーメン考察で、麺の太さの違いは茹で時間を決定しないことから、むしろスープ(釧路では『ラーメンの汁』と呼ぶ人が多い)の濃度の関係で、薄い濃度の汁に絡みの良い細麺が選択されたと考える方が自然でありましょう。

北海道開拓地の鶏や豚の骨を煮だした濃いめの栄養価の高いスープに、麺を入れて食べるという派生を辿るラーメンに比して、そば粉が手に入りにくい時期に、蕎の汁に小麦でこさえた麺を入れて食したと考えれば、昆布や鰹、煮干しなどでとった汁に絡みの良い麺。それが細麺であったといえましょう。『支那ソバ(小麦粉でつくったソバ)』=いわゆる「釧路ラーメン」と考えれば、イメージしやすいのではないでしょうか?

また、その当時の鳥取町の香川開拓団の子孫家族では、好んで『うどん』を食していたなどの話もあります。共栄大通りの「高橋製麺所」では親指ほどの太いうどんが作られていたとも聞きます。釧路と小麦粉麺の関わりを示すもう一つの側面です。

釧路の文化や食の文化を語る上で、開拓の………鳥取町などの北海道開拓文化が、町村合併後伝えられること無く忘れられていったことを示す一端でもあります。



その後、旧釧路市と鳥取町の合併を前後して、「釧路」に農耕や開拓者の食文化も嗜好も相互浸透していきます。
札幌、旭川の栄養価の高い、安い旨いのラーメン製法が、鉄路を通して普及していきます。


北海道では鶏ガラよりも豚骨を主材料とするスープが主流です。

チロチロ清湯の澄んだスープの採り方か、グラグラ白湯の白濁スープの採り方かの違いこそあれ、主材料は豚骨です。
海皇のラーメンは、豚骨をドラム缶に入れて薪を焼べた『ドラム缶ラーメン』の流れをくむ『北海道開拓』の魂を源流としています。





【鳥取百年記念館】
 
 〒084-0906 北海道釧路市鳥取大通四丁目2番18号 鳥取神社境内





  入館料      無 料
  
  開館時間     午前10:00〜午後4:00

  休館日      毎 週   月・水曜日
           神社例祭日 9月12〜16日
           年末年始  12月28〜1月5日    








【資料画像】豚とともに切り拓らかれた、北海道十勝開拓史。





高木暁堂 開墾之図




北海道の中央部、北に大雪山、西に日高山脈を仰ぐ十勝平野の開拓に、豚の役割は大きいものがあったのでしょう。

依田 勉三と「晩成社」。「開墾のはじめは豚と一つ鍋」です。


開拓当時の豚で開墾する様子が、『帯広百年記念館』収蔵の日本画家 高木暁堂氏の作品に描かれていました。

私が初めてこの絵を目にしたのは、1990年。

この絵を見た時は驚きましたね。日高山脈を仰ぐ不毛の北の大地を、豚で切り拓いているのです。馬でもなく牛でもなく、豚で開墾する。


畑が開ければ、農作物ができます。
芋の皮を炊いて飼料にすることもできます。ひとの食すもの、ひとの食べない野菜の部位を炊いたり、残飯を飼料として、豚は成育できたのです。
人、生きれるところ厳寒な土地でも、家畜としては豚なら生きられたわけです。

北海道十勝。開拓当時からの人と豚の繋がりを、垣間見ることができたのです。





高木暁堂(たかぎ ぎょうどう) 1888-1966

明治21年、広島県に生まれる。本名は平四郎。九州で医科の書生ののち京都に出て、主に南画系画人を歴訪し画技を磨く。30歳前後、北へ放浪の旅に発つ。昭和初期には、富良野・滝川を経て帯広に定住。西別院裏に「画禅道場」を開き、清貧自適。山岳画・建物全景など練達の水墨画を残す。戦後、占領米軍のマッカーサー元帥が画帖所蔵。最晩年は札幌移居、丸井デパート個展でその新価が知られた。昭和41年没。







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